創作と複写とアクセス性

以上のようなことを考えていると、「複製できないと創作できないのか?」という疑問が生じてくる。
たぶん、複製できることと創作することとは、別のことだと思う。
私は日記を書いているので、ニュースサイトや日記サイトを見て回って、刺激を受けることが良くあります。そして、他人が書かれた文章を読んで、自分の日記を書きたいと思うときがあります。
でも、自分の日記を書くときに、他人の文章を複製しなければ文章が書けないかというと、そんなことはないです。そのサイトにアクセスして、読めれば事足ります。
テレビニュースで衝撃を受けたり、ラジオから音楽を聞いて感動したりすることも、コンテンツにアクセスしたということでしょう。
逆に、どんなに素晴らしい芸術作品でも、好事家に秘蔵されていれば他人の創作に貢献しないと思う。


そう、創作意欲を駆り立てるのは、他人のコンテンツを複製できることではなく、他人のコンテンツにアクセスできることだ、というのが私の考えです。
そして、複製というのは、自分の手元に置いておけるという意味で「所有」と等価であり、所有していればコンテンツにアクセスする質、量ともに高められる点で、複製が創作に関わってくるのだと思います。
人のリソースには限りがあるので、お金を払ってでも価値あるものを所有したいと考えることが、著作物の利用につながるのだと思う。


著作物の所有者にとっても、他人がコンテンツにアクセスできること、あるいはコンテンツの流通が大事ではなかろうか。
価値あるコンテンツは、他人にアクセスさせること、流通させることによってはじめて、価値を生むのだと思う。
この点で、CDプレーヤーでの動作保証がされていない、コピーコントロールCDは、いただけない。
利用者には、「著作物を利用しない」という選択肢があることを著作物の所有者は考えるべきだ。著作物を利用しないことは、文化の発展に寄与しない、不毛なことだけど。


コンテンツへのアクセス性って、自分で思いついたと思ったのに、文部科学省での意見募集が終了した「文化審議会著作権分科会報告書(案)」の中にも、「アクセス権」を創設するか否かという話が出てた。私だけじゃなかったのね。
http://www.mext.go.jp/b_menu/public/2003/03120901/002/004.htm